お雑煮のブログ

ほぼ偏見

扁桃体

僕は神経を尖らせ過ぎなのかもしれない。それはとても悪い意味で。

 

未来が見えなくてどうしようもなく1人になった途端泣きそうになることも多くなった。

 

 

考えなくて良いこと、見なくて良いもの、見てしまった物、まだ起こってもいない事、色々考えて頭の中が騒がしい。

 

 

 

こういう不安や悩みは脳の「扁桃体」という部分で作られているらしい。扁桃体よ、もう少しだけ僕に優しくしてくれないか。

 

 

 

何も考えていない人の方が僕から見てとても幸せそうだ(自分が不幸だとは思っていない)何も考えてない人の周りには似た人が集まり、「何も考えていないこと」がその人たちの周りでは当たり前になる。ネット上(不特定多数)に自分の写真を軽率にあげる人はそのリスクや、その結果起こり得る可能性の事など微塵も考えていないだろう。そしてその周りもそうだ。僕はそういうのを目にしては「怖さ」をどうしても感じてしまう。扁桃体よ、大人しくしてくれ。

 

 

 

真面目に生きる。人によって真面目の定義はさまざまだけど、少なくとも僕は真面目に、守るべきルールを守って生きてきた。それなのに真面目じゃない人達の方が楽しそうだった。最近独りを沢山感じる。それはどうしようもない物で、フッと現れては心を深いところまで持っていき、「あとは自力でなんとかしな」と言って去って行く。自分じゃどうする事も出来ないからそのままにするとまた現れて、この繰り返し。もう慣れてきた気もする。

 

 

 

マナーやルールを守らない人の周りには、似たような人しか集まらない。だから僕はそんな道を避けて通ってきた。でも一番厄介なのは、大切な人がそっち側に行ってしまうことだ。僕はこれが怖い。もう僕は人と接するのが向いていない可能性が高い。自分や周りが大人になるにつれ嫌な部分が沢山見えてくる。嘘も沢山つかれてる。隠し事もされている。僕もたまにする。考え出すとキリが無いのに、考えてしまう。負のループが始まり、またフッと現れて心を深いところまで持っていきお決まりの「あとは自力でなんとかしな」を繰り出される。

 

 

 

こんな人に似たような奴はそうそうおらず、独りになってしまった。未読のLINEも殆どない。インスタは自己顕示欲全開の遊んだことを周囲に知らせるツールだと思っているし、本当に良いねと思ったものにしかいいねはしない。ネットの友達も殆どいない。僕は捻くれ者だ。

 

 

 

 

ちなみに今日1人で食べたカレーが美味しかった。その時だけあいつはフッと現れて来なかった。

 

 

日記③本と本

 

訳あってイライラしている。というか最近は何事にもイライラする。雨なんかが降った日には朝から雨に対しての不満をぶつぶつ言ってしまう。

 

 

というか色々と泣きたい。うん、泣きたすぎる。今凄い優しい言葉を投げかけられたらボロボロ泣いてしまう気しかしない。今日の帰りの電車でもそんな感じで一日中引きずっている。電車に乗っている時は、星野源さんの「そして生活は続く」というエッセイ集のきんたま発言という話を読んでなんとか涙を堪えていた。でもこの話もちゃんと良い話なのでうるっと来そうで顔面が色々とダメだった。

 

 

何か打開策はないかと頭を捻った結果、本を買うという結論に辿り着いた。

 

 

僕はここ1〜2年で本を読むようになった。本を読んでいる時、その本の著者との距離が近く感じる。なんかこう、その本を書いた人の話を一方的の聞かされている気持ちになっている。言い方を良くすれば対談みたいな感じで、僕は「わかる…」「素敵だ」と文を読みながら心の中で著者に相槌をうっている。

 

 

 

そう思うのも、僕が「独り」を感じる時間が多くなったのと、読んでいる本のほとんどがエッセイなのが原因だろう。1人は楽だ、自分のペースで全て決行できるし、出先で1人だったら誰かのトイレを待つ事もないし、誰かに自分のトイレを待ってもらう必要もない。

 

 

でも時折感じる寂しさは拭いきれない。少なくとも僕は寂しさを感じてしまう人だった。エッセイはその人の人生が読めるし、その人の良いと思った考え方を自分の人生に活かせる。そこが良い。どんな大物アーティストにも僕らと同じような悩みがあると安心する。そこが僕の感じている寂しさに優しく寄り添ってくれる。

 

 

 

本屋に来た。真っ直ぐ進み突き当たりを右に曲がり、漫画コーナーを抜けるとあった、エッセイコーナーだ。僕は前々から欲しかった星野源の「いのちの車窓から」を手に取りレジに向かおうとしたが、その隣においてあった「野田の日記」もなんとなく手に持つ。そしてレジに向かう僕にまたここで誘惑が…「ドラえもん拡大原画集」なるものが漫画コーナーにおいてあった。藤子・F・不二雄さんのドラえもん、その原画を拡大して色んな目線で分析する本だ。結構大きめの本でわりかし重い。もう落ち込んでいる僕は誰にも止められない!(誰も隣にいないが)僕はそれも手に取りレジに向かった。

 

 

 

会計が9000円を超えた。僕はもういいや精神で家に帰った。

 

 

 

小雨の中本を守りながら帰る。本だから濡れる。携帯の電子書籍じゃ味わえないものがある。

 

 

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家に帰りドラえもん原画集を見る。一つのページの大きくドラえもんの作中の一コマが載っている。迫力が凄い。よく「ドラえもんが上手く描ける」という人がいる、当たり前だけどそんなもの比じゃない。

 

 

そこに描かれたのび太ドラえもんは当然ながらとても丁寧に描かれている。だがこの本は拡大原画集、拡大された原画なのだ。鉛筆の下絵や、ホワイトでの修正などドラえもんという漫画ができるまでの「課程」がしっかり見える。その中には汚れや線のミスを修正した箇所などもある。それを見ながら僕はボロボロ泣いてしまった。ページをめくるごとに何故だかわからないが涙が止まらない。挙げ句の果てにしずかちゃんの原画を見ながら鼻水を垂らして泣いていた。

 

 

 

最近あった事やどうしようもない僕の言動がフラッシュバックしてしまい、着ていたグレーの長袖Tシャツがびちゃびちゃになってしまった。

 

 

 

こんなに不意打ちを喰らうとは思わなかった。笑いたくて読む本、泣きたくて読む本、僕の中でも色んな本があるがまさかこの原画集で泣くとは思わなかった。

 

 

でもそれを読み終わると、また1人だった。僕は次の本を手に取りまた泣いた。

 

 

日記②(ソファとカラオケ)

また何もせず文章を打っている。

 

いや、正式にはやらなきゃいけない事をする為に出掛け、その先でこのように文字を打って道草をしている。本当はこんなことしていられないくらい忙しいのに。このゴールデンウィークの期間、ろくな生活をしていない。インスタを眺め、知人が出掛けている投稿を目にしては、その感情がマイナスかプラスかは置いておいて、何とも言えない気持ちになる。

 

 

今僕が座っているマンションのエントランスにある椅子はこのマンションが建設された頃からずっとある。何回かレイアウトを変えながらも姿を消さず存在するこのソファはこのマンションのちびっ子たちの遊び場になっていて3時頃にはちびっ子やママ友で賑わう。しかし何年か前、住人からの騒音的なクレームで子供の数は以前より減った。

 

 

最近僕は10時頃に帰宅する。自分に対する内面的な課題と提出しなければならないリアルな課題を抱え、マンションの階段を登り、真ん中くらいまで来ると賑やかな声が聞こえる。「あ、まただ…」と僕は思う。そう、最近カップルがこのソファに座ってイチャイチャしているのだ。疲れ切った体にその一瞬の光景は見えないナイフとなりグサグサと僕に刺さる。帰りにコンビニで買ったスイーツが全く楽しみじゃなくなる。

 

いや、別に全然良いんですよ!イチャイチャしてもらって。愛を確かめあってもらって良いんですよ!

ちなみにこのマンションにはもう1組カップルがいる。その人たちもこのソファを使って勉強会をたまにしている。

 

 

そのカップル御用達のソファに座りながら僕は文字を打っている。できる事なら深夜のサイゼリヤやガストなどでブログを執筆したい所だが、流行り病は一向に収まる気配がない。だから僕は「大正浪漫喫茶BGM」を聴きながら今は汚い自分の部屋で打っている。流石の僕もマンションのソファに一時間いたら飽きる。なにより住人にチラチラ見られる。

 

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さあ、場所は変わり今現在僕はカラオケボックスにいる。え?誰といるのかって?「1人だわ」

 

 

何気に1人カラオケは初だ。

 

そもそもカラオケ自体あまり行かない。カラオケは僕にとっての歌唱力の無さを知る場所であり、時として大恥をかく場所でもある。ではなぜそんな僕が1人でカラオケに来ているのかというと、レポート課題なるものをする為だ。

 

そんなもの家ですれば良いじゃん、なんて思う方もいるだろうが、今僕の部屋は想像を絶するほど汚い。ゴミ屋敷ほどではないが汚いし、汚いのか何なのかわからないが自分の部屋なのに最近落ち着かない。これはストレスも関係している気がする。というわけで1人カラオケに来ている。受付で何も考えないまま頷いていたら会員証を作らされた。(嫌ではない)部屋に案内され入るや否や「ラブホの装飾!」と僕の中の粗品がツッコんだ。部屋全体がピンクピンクしているし置いてある物もなんだか安っぽいのだ。ちなみに僕はラブホに行ったことはないが、僕が案内された部屋は世間的なラブホのイメージと酷似しているのは確かだろう。

 

だが、ものすごく居心地が良い。受付のお姉さんも感じが良い人だったのでそれも居心地の良さに繋がっている気がする。

 

 

強いていうなら、僕の使っていた部屋の床が少し汚れていた。よく見るとポテトチップスの残骸だ。きっと僕が入る前、ここを使っていた人達はあまりの楽しさからかゴミの事など忘れ退出したのだろう。

 

僕はしっかりと落とし物がないかを確認し、お会計をした。また来よう。

日記①

高校生らしい悩みだらけだな毎日

 

いつ何時だって悩みは尽きない。時間が一秒進むたびに悩みが一つ一つ増えてくる。

 

多種多様な周りの人間に振り回される自分の思考。

話は変わるが僕は年々面倒くさい人間になりつつあり現在進行形だ。

 

 

流行りのアプリで音楽にノるカップルの姿を見てはいつ破局するのだろうなどと考えてしまう。

 

口だけを隠すアイドルを見ては「口だけを隠すことに意味はあるのか?」などと考える。

 

スタバでマックブックを開いている人を見てはそこでする必要があるのか?もっといい場所があるのではないのか?なんて思ってしまう。

 

 

僕が昔から不思議に思っている事の一つに「男1女3で出掛けている人達」というのがある。あれは本当に謎だ。

 

しかし殆どの場合男子も女子も顔が整っている。このような場面に街で遭遇した後、僕はひとり自分の部屋でこの事について考える。そしてこの場合「世の中顔」という結論にたどりつきひとり部屋で落ち込む。単純に周りに振り回されている。いや、自分から振り回されに行っている。そしてそれなりに勝手に傷つき暗い気分になる。面倒くさい人だとつくづく思うが治せない。

 

 

そんな僕は最近音楽に救われる。

 

去年何きっかけだかは忘れたが「星野源」を深掘りした。もともと母がファンだった事もあり曲はちょこちょこ聴いていた。

 

そして僕はファーストアルバムに収録されている「ばらばら」に心を持っていかれた。

 

歌詞に「 世界はひとつじゃない ああそのままばらばらのまま 」とある。

当たり前な事なのに最近忘れていた気がする。どうして気が合わないのだろうとか、どうしてそんな愚かな事ができるのだろうと日々悩んでいたが根本は悩んでもどうしようもないという事に気がついた。みんなばらばらだからだ。

 

歌詞の続きに「 気が合うと見せかけて 重なりあっているだけ 」とある。多分誰かと本当に気が合う瞬間は日々の中で少ししか無いのかもしれない。気が合わない、もやもやして曇りがかっている気持ちは楽しかった記憶や偽の感情で重ね表に出ないようにしていると思う。思い返せばそんな気がした。

 

 

そんな僕を支えてくれている星野源さんの曲を聴きながら通学をする。通学の際使うのは電車だ。

僕は必ず先頭車両か後方車両どちらかに乗る。これには理由があって、まず僕は座りたい。それも極力人がいない所でリラックスしながら座りたい。そうなれば自ずと一番前か一番後ろの車両に乗る事になる。しかし必ず誰かしらは座っている。でも全く問題ない。なぜならそこに座っている人もおそらく僕と同じ理由でその車両に乗っているからだ。お互いリラックスしたい同士だから居心地は良い。だから僕はホームを前へ前へと進む。

 

 

星野源さんの曲には計り知れない程の勇気と悲しみを貰っているのでその話はまたいつかしたいと思う。

 

 

そんなこんなでまた大切なゴールデンウィークという時間を無駄にしてしまっている。

ある意味人間らしい行動ではあるものの、多分自分の走馬灯には載らないだろう。今行なっていることが未来に繋がる気がしない。だからと言って胡散臭い「有名○○になるための10箇条」みたいなことは「胡散臭いし嫌だ」と言ってやらない僕。というかこういう事を言ったり何かに載せる人は大抵自分の事が好きだから自分の写真とかも一緒に載せている。載せている本人は何も考えていないと思うが、そういうところに僕は少し違和感を感じてしまい「ではやってみよう」とはならないのだ。

 

 

やらない理由を見つけては物事を後回しにした結果、生活リズムは崩れ精神を思い込み、嫌な現実が蝕んでいく。

 

こういう時どうするのが正解なのだろう。ちなみに「死ぬ」という選択肢は僕にはない。まだやりたいことが山ほどある。エッチもしたい。憧れの人とも仲良くなりたい。友達を増やしたい。だからまだそれを選択することはない。思えば大きな病気にかかった事が今までない入院もした事がない。体は至って健康なのに精神の器の大きさが見合ってないのかもしれないなと思い、「精神 安定」と調べ、覗いたサイトには「こんな状態があったら要注意」という自分でチェックできる項目があった。僕はほとんど当てはまっていた。

 

どんなことも 胸が裂けるほど苦しい 夜が来ても全て覚えているだろう

 

声をあげて 飛び上がるほどに嬉しい そんな日々がこれから起こるはずだろう

 

 

「フィルム」のこの歌詞を忘れずに生きていこう。さようなら

 

 

散歩

地元の匂いは凄く地元の匂い

 

 

マスク

 

 

誰もいない帰り道でふとマスクを下げ鼻だけ出すと香る地元の匂い

 

僕は散歩が好きで思ったより暖かく過ごしやすいなと思う日の夜とかに20分とか30分とか、長くて一時間くらい散歩をする。

 

 お決まりのコースがあるわけではないが、なんかこっちに行くとスッキリするっていう道はあるので気の向く方向へ進む。

 

遅いときは10時頃に散歩に行くのでもう人があまりいない。別に最寄りの駅に行くわけでもないし、商業施設が連なる場所に行くわけでもないのでマスクをたまに外す。

 

 

 

 

 

 

 

 

マンションの横の小道を歩く。

右は誰かの畑で昼は鳩が地面にある何かを良くつついている場所だ。あれ何なんだろ。

 

少し歩いた所でお風呂の匂いがする。

自分の家のお風呂の匂いじゃないのに懐かしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

友達の家の匂いを嗅いだときの感覚に近い懐かしさ。

 

もう久しく友達の家には行っていない。

 

グッピーを飼っていた友達の家の匂いはクセが強めの匂いだったが、それが良かった。

 

何時間か遊ぶと匂いにも慣れ、また明日ねと帰る。

 

次遊びに行くときにはまた「クセ強い匂いだなぁ」なんて思うんだろう。いつになるのやら。

 

 

 

 

 

 

 

結局僕が行う「散歩」という行為には少し「自分に酔う」っていうテーマがあって

 

「自分はこんな感性がありますよ」とか「自分は散歩中のこんな場面に感化されましたよ」っていう素人のアーティスト気取りなところが殆ど

 

「なんでこんなに素敵な匂いがあるのに皆は携帯ばかり見てセルフィーを撮っているんだ!」って自分は皆とは違うんだぞって。

 

お前は素敵な考えや思想を持っているんだぞ!って

 

凄い五感が鋭くなって、色んな事に目や鼻や耳を向けられる、そういう自分に散歩の時間だけなれるんですよ。

 

普段の生き方だったり考え方の源、この散歩が自分の一部を支えていると言っても過言ではないんです。

 

ほらこの文章だって自分に酔ってる。

 

 

 

 

 

 

 

それと地元の匂いは素敵です。

友達の少なさ

僕は友達が少ない

そしてこれを見ている僕の友達はなんて思うのだろうか。

 

早速矛盾が生じたが気にしないでほしい。

そして僕に友達が少ない理由は決して「友達なんか作るだけ無駄だよ」なんていう突飛な考えを幼少期から曲げずに持つアーティストの様なものではない。

 

単純に増えないのだ。

小学校の頃はめちゃくちゃ友達がいた。
僕が通う小学校は小さく、クラスも少なかった為、殆どが顔見知り、友達でなくとも知り合いではあった。

 

それが中学校ではどうだろう。
僕は大海原へ投げ込まれた。小学校の頃の友達には僕が知らない新しい友達ができており、僕はそいつと噛み合わない。中学校にはサッカー部のボス的な存在のやつがいて、どんなに素行が悪くても担任には怒られない。しかも小学校の友達の何人かはそいつの腰巾着。

 

知らないやつに話しかけられたと思ったらイジられる日々。正直地獄のようだった。僕はそれを見てみぬフリをしながら過ごしていたが、いつかそれは限界を迎え、下手な体調不良の演技が始まった。

 

部活動は徐々に行かなくなり、知らない間に幽霊部員扱いをされていた。当たり前だ。

 

日頃の鬱憤が溜まると、仲の良い人にもぶつけてしまう事がある。

よく思い返せば、あの頃仲良くしてた人も、僕が仲良くしてただけであって、僕が何かされた事はなかったかも。なんてどうしようもない事を考える。
「でも仕方ないよ。あの頃は皆子供なんだから」と心の中の僕が作り上げた吉岡里帆が言う。

 

先日たまたま小中の同級生を見かけた。信号待ちをしていた時向こう側の道路に4、5人の集団を見つけよく見てみると、全員知った顔だった。

軽く声をかければ良いものの僕は反対方向の本屋に向かい、文房具コーナーで暇を潰していた。

 

きっと声をかけれないのには僕の彼らに対するうしろめたさがあるからだろう。

 

具体的な話をすると、彼らは僕が学校に行かなくなったとき、心配をしてくれた。教室に出向いて僕が今日学校に来ているか心配していたらしい。でも僕は学校には行けなかった。次第に友達のその心配は無関心に変わり、僕は誰からも必要とされておらず、いる必要がなくなっていた。そして僕はその友達の「心配」すらも嘘なのではないか?と考え始め、最終的には誰も信じていなかった。

 

僕も結構嫌な人だったわけだ。

 

後ろめたい。

これは一生引きずり、記憶に残るものでありかっこつけた言い方をすれば僕にとっての「消えない傷」の様なものになった。

 

僕は中学校という概念を溝に捨てた。
たまに拾い上げても、匂いや汚れがキツくて決して綺麗にはできない。綺麗にしても溝に捨てたことには変わりない。

 

それからだろうか。
友達という存在が何なのかがわからなくなったのは。

 

最近はインスタグラムやTwitterなどのSNSでのやり取りが当たり前の時代だ。

 

この手のツールは僕の心配性を加速させる。
単なる言い訳に聞こえるが、今どきの若者は基本入れていないと時代遅れだと思い僕は入れている。時代に逆らうほど自分の芯は強くない。入れたおかげで新しく知り得る情報もあれば、知らなくて良かったこともある。不思議な世の中だ。

 

友達という存在について深く考えすぎると、倫理の教科書に載っている面倒くさい人になってしまう事は目に見えている。

しかし僕のように物事を理屈で考える「割と面倒くさい人」は友達を作るのが苦手なのだろう。

 

友達には僕より仲の良い友達が沢山いる。常にこんなことを思っているからだめなんだ僕は。

僕の友達には僕より仲がいい人がいて………。延々とこのループが続く。

 

しかしこのループを続けたところで何も生まれないのだ。最終的に損しているのは紛れもなく自分。こんな深く考える必要なんてどこにもない。

 

友達の友達の友達の友達の友達の友達……………といくらでも人は出てくる。

 

そんな中で知り合い、他愛もない話をし、ご飯を一緒に食べる。そんな存在が沢山いなくたって良いのではないか。何も沢山いる必要などどこにもない。

しかし、僕は友達が沢山欲しい。不思議だ。僕のこの悩みを解決する日なんて永遠に来ない。だって「友達100人できるかな」なんてクソくらえと思っているからだ。

 

矛盾がすぎる。

 

むしろこうしたい。こうなりたいなんてビジョンがないまま永遠文句を言ってる。いや、打ってる。

 

友達が沢山いる人はきっとこんな事は考えていないはずだ。

 

友達が少ない人ほど考える。

 

そんな優柔不断で芯がない僕は「割と面倒くさい人」なんだ。

愚痴其の一

今週のお題「鍋」

 

寒い日には鍋だよね!

 

鍋らしいです。でも僕はビーフシチューのほうが好きですね。

 

あー「イエスマン」とか観ようかなぁ。

僕が主演ジム・キャリーの映画「イエスマン」を観ようと思うときは大体落ち込んでいる時。

 

この映画はネガティブな性格の主人公が自己啓発セミナーに行き、世の中の何に関しても「イエス」と答えていく生活を楽しく、ドラマチックに描いたもので観るととても元気が出る。

 

話は変わるが

 

あーモテたい。
モテなくてもいいからかっこよくなりたい。
僕は昔っからそう。なんだかんだかっこよくない所にいつも居て、かっこいい人を横目に音を出さない舌打ちをしている。

 

もうそんな考えしてる時点で性格がブサイク。
本当のイケメンは他人のことを思いやり…平等に…って、そんなイケメンいるわけねぇじゃねぇかよ!
いてもあったことねぇぞオイ!

 

大体皆自分の顔には自信があるし、何がとは言わないがどうせ経験も豊富だよ。世の中顔とコミュ力でどうとでもなるなぁ本当に本当に本当に本当に。
でもそんなやつにホイホイついてく女も女かぁ…。
いや!でも!イケメンは女性を口車に乗せるのがうまいからなぁ〜〜〜あはは!はい偏見!

イケメンで良いやつもいるしなぁ…。

 

あーあ恋したいなぁ!恋というか!恋はしてるのか?してないのか?!なんというか!もともと自分からいけないんですよ。チキンですよチキン。もうどうしようもないほど恋愛に関しては弱々しい僕。いつも色々逃すし、無駄なことばかり考てる。

 

付き合ってもいない女の子が他の誰かと話しているのを見ると嫉妬はするわなんだで精神は弱くなり、結局逃げるところは「絵」か今は「ブログ」くらい。でもそういうときの絵とか文章のほうが気持ちがノるというか、なんか凄い完成度が高いんですよね。あら不思議。

 

ここ最近は「可愛い」と言えるようにはなった。
昔はそれすら言えず、ムズムズしていたが、最近はサラッと言えるようにはなった。成長したなぁ…。


でもだ、でもだよ?言い過ぎも良くない気がする。いや言ったほうがいいのか?

あーわからんよ!

 

さきかんきになるこさ(じかんさにちゆ。そのこはふごぬど(ょぬしてゆしやとてよしゅたいてきでやりーなーてにやのんばちな。なんかけまつまてかやかそのかのやけになあよくな((

 

あ、目をつむって打ってみたが何もわからないな。

 

凄く落ち込んでいる時、僕が目をつむっても字が打てるようになったらそれは本当に落ち込んでいる時。「真の落ち込み」ということにしよう。


つまり僕はまだ大丈夫らしい。
日々愚痴を聞いてくれる方には感謝しかないです。愚痴でした。