友達の少なさ
そしてこれを見ている僕の友達はなんて思うのだろうか。
早速矛盾が生じたが気にしないでほしい。
そして僕に友達が少ない理由は決して「友達なんか作るだけ無駄だよ」なんていう突飛な考えを幼少期から曲げずに持つアーティストの様なものではない。
単純に増えないのだ。
小学校の頃はめちゃくちゃ友達がいた。
僕が通う小学校は小さく、クラスも少なかった為、殆どが顔見知り、友達でなくとも知り合いではあった。
それが中学校ではどうだろう。
僕は大海原へ投げ込まれた。小学校の頃の友達には僕が知らない新しい友達ができており、僕はそいつと噛み合わない。中学校にはサッカー部のボス的な存在のやつがいて、どんなに素行が悪くても担任には怒られない。しかも小学校の友達の何人かはそいつの腰巾着。
知らないやつに話しかけられたと思ったらイジられる日々。正直地獄のようだった。僕はそれを見てみぬフリをしながら過ごしていたが、いつかそれは限界を迎え、下手な体調不良の演技が始まった。
部活動は徐々に行かなくなり、知らない間に幽霊部員扱いをされていた。当たり前だ。
日頃の鬱憤が溜まると、仲の良い人にもぶつけてしまう事がある。
よく思い返せば、あの頃仲良くしてた人も、僕が仲良くしてただけであって、僕が何かされた事はなかったかも。なんてどうしようもない事を考える。
「でも仕方ないよ。あの頃は皆子供なんだから」と心の中の僕が作り上げた吉岡里帆が言う。
先日たまたま小中の同級生を見かけた。信号待ちをしていた時向こう側の道路に4、5人の集団を見つけよく見てみると、全員知った顔だった。
軽く声をかければ良いものの僕は反対方向の本屋に向かい、文房具コーナーで暇を潰していた。
きっと声をかけれないのには僕の彼らに対するうしろめたさがあるからだろう。
具体的な話をすると、彼らは僕が学校に行かなくなったとき、心配をしてくれた。教室に出向いて僕が今日学校に来ているか心配していたらしい。でも僕は学校には行けなかった。次第に友達のその心配は無関心に変わり、僕は誰からも必要とされておらず、いる必要がなくなっていた。そして僕はその友達の「心配」すらも嘘なのではないか?と考え始め、最終的には誰も信じていなかった。
僕も結構嫌な人だったわけだ。
後ろめたい。
これは一生引きずり、記憶に残るものでありかっこつけた言い方をすれば僕にとっての「消えない傷」の様なものになった。
僕は中学校という概念を溝に捨てた。
たまに拾い上げても、匂いや汚れがキツくて決して綺麗にはできない。綺麗にしても溝に捨てたことには変わりない。
それからだろうか。
友達という存在が何なのかがわからなくなったのは。
最近はインスタグラムやTwitterなどのSNSでのやり取りが当たり前の時代だ。
この手のツールは僕の心配性を加速させる。
単なる言い訳に聞こえるが、今どきの若者は基本入れていないと時代遅れだと思い僕は入れている。時代に逆らうほど自分の芯は強くない。入れたおかげで新しく知り得る情報もあれば、知らなくて良かったこともある。不思議な世の中だ。
友達という存在について深く考えすぎると、倫理の教科書に載っている面倒くさい人になってしまう事は目に見えている。
しかし僕のように物事を理屈で考える「割と面倒くさい人」は友達を作るのが苦手なのだろう。
友達には僕より仲の良い友達が沢山いる。常にこんなことを思っているからだめなんだ僕は。
僕の友達には僕より仲がいい人がいて………。延々とこのループが続く。
しかしこのループを続けたところで何も生まれないのだ。最終的に損しているのは紛れもなく自分。こんな深く考える必要なんてどこにもない。
友達の友達の友達の友達の友達の友達……………といくらでも人は出てくる。
そんな中で知り合い、他愛もない話をし、ご飯を一緒に食べる。そんな存在が沢山いなくたって良いのではないか。何も沢山いる必要などどこにもない。
しかし、僕は友達が沢山欲しい。不思議だ。僕のこの悩みを解決する日なんて永遠に来ない。だって「友達100人できるかな」なんてクソくらえと思っているからだ。
矛盾がすぎる。
むしろこうしたい。こうなりたいなんてビジョンがないまま永遠文句を言ってる。いや、打ってる。
友達が沢山いる人はきっとこんな事は考えていないはずだ。
友達が少ない人ほど考える。
そんな優柔不断で芯がない僕は「割と面倒くさい人」なんだ。